人獣共通感染症連続講座(山内一也)(第119回 ) 2001.7.13
新刊書「悪魔の生物学」
本講座第98回で「最後の審判の生物学」としてご紹介した本の和訳が、
河出書房新社から出版されました。題名は「悪魔の生物学。日米英・秘
密生物兵器計画の真実」(訳者:柴田京子)で、私が監修と解説を受け持
ちました。その解説の部分を転載します。
解説
20世紀に幕が開いた微生物学は感染症の制圧に貢献したが、その
影の部分として生物兵器の開発が1930年代にはすでに始まっていた。
第一次大戦でのガス兵器の教訓から1925年にジュネーブ条約でガス
および細菌兵器の使用が禁止されたが、現実は逆の方向に動いていっ
たのである。
この分野で先頭を切ったのは日本だった。石井部隊長のもと悪名高い
731部隊による細菌兵器開発は1930年代前半に始まった。英国では
1942〜43年にスコットランドのグリュナード島で有名な炭疽菌の大規
模散布実験が行われた。同じ頃、米国でも生物兵器の開発が始まった。
これらのきっかけはドイツ軍が細菌兵器の開発を行っていて、それを
V-1ロケットに積み込むという情報だったと伝えられている。しかし、第
二次大戦が終結してみると、ドイツ軍はまったく細菌兵器の開発は行っ
ていなかった。これは、第一次大戦で毒ガスの恐ろしさ実際に体験した
ヒットラーの命令で開発が中止されたためといわれている。
米国が本格的に生物兵器開発に乗り出したのは第二次大戦終結後
である。追い風になったのは冷戦時代という背景だった。首都ワシントン
郊外に設立されたフォート・デトリック(1956年にキャンプ・デトリックが
改称されたもの)は生物兵器開発の中心となった。実戦を想定して、ま
ず、無害の細菌を国防省ペンタゴンの建物に撒布する模擬実験、サン
フランシスコ沿岸では蛍光を発する硫化カドミウム亜鉛の粒子の撒布
実験などを行った。1950年にはフォート・デトリックに8ボールと呼ば
れた巨大な地球儀のような建物を細菌の散布実験用に建設した。
開発の最終段階は、実際に人間での実験になった。ユタ州のダグウ
エイ実験場でボランティア兵士に対してQ熱病原体散布が行われたの
である。このような段階を経て米国は1952年には生物兵器による実
戦の準備はすべて整ったといわれる。しかし、1969年にニクソン大統
領が攻撃用生物兵器開発の中止を突如決定し、これらの計画はすべ
て中止された。30年間にわたる米国の生物兵器研究の最後の段階で
は、実に4000人もの人が参加する大規模なものになっていた。残った
のは防御用生物兵器開発(ワクチンなどの予防法や診断法)であって、
これは陸軍感染症研究所に引き継がれて現在にいたっている。ここは
1989年にワシントン郊外で見いだされたカニクイザルのエボラウイル
ス感染の際に活躍したところで、ベストセラー小説「ホットゾーン」や映
画「アウトブレイク」のモデルにもなったところである。
本書は、情報公開展示法で閲覧できるようになった2000ページ以
上の資料と多数の関係者のインタビューで得られた多くの情報をベー
スとして、これまでほとんど知られていなかった生物兵器開発の歴史を
明らかにしたものである。著者のエド・レジスは米国メリーランド州に住
むサイエンスライターで、日本では代表作「アインシュタインの部屋」
(工作舎、1990)、「ウイルス・ハンター」(早川書房、1997)などが翻
訳出版されている。彼はもと哲学の教授であって、本書ではその哲学
的な視点が生物兵器の実態をより一層不気味なものとしている。
興味ある多くののエピソードも紹介されている。そのひとつに、731
部隊に関する記述がある。これまでに「悪魔の飽食」をはじめ、いくつか
の書物がここでの人体実験の事実を紹介しているが、本書では、米軍
と石井部隊長との具体的取引の内容、人体実験の具体的規模が明ら
かにされ、しかも最後にそこでの研究成果に対して科学的にほとんど
価値が認められなかったことが触れられている。
筆者はウイルス専門家として、生物兵器開発の中心となった米国の
フォート・デトリックや英国のポートンダウンなどを訪れたことがある。と
くに、前者では大規模撒布施設である8ボールの内部も見学し、スケ
ールの大きさに驚かされたことがある。この訪問の目的は、生物兵器
開発の副産物であるバイオハザード対策のためであった。感染症の防
止が本来の目的である微生物学が、生物兵器開発につながり、生物
兵器開発の実験に従事する者の感染防止を目的としてバイオハザード
対策が確立されるという、不思議な巡り合わせとなっていたのである。
冷戦が終わった現在、今度は国際的にバイオテロへの関心が高まっ
てきている。そのきっかけのひとつは日本で起きたオウム真理教のサ
リンなど一連の事件である。生物兵器は戦争における武器ではなく、
テロの手段として関心が持たれるようになったのである。米国ではバイ
オテロが起きるかどうかではなく、いつどこで起きるかが問題になって
いる。
本書で述べられているのは、いわば古典的生物兵器の実体であり、
ほとんどは過去のものかもしれない。ところが、現在では遺伝子工学
技術の進展で新しい微生物を意図的に作りだすことも可能になってい
る。本書の原題"The Biology of Doom"(最後の審判の生物学・終局の
生物学)は、これが21世紀に近代的生物兵器によるバイオテロの形
でふたたび姿を現すことがないよう、警鐘を呼びかけているものと思え
る。
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