人獣共通感染症連続講座(山内一也)(第149回) 2003.9.2
新刊書:「崩壊の予兆:迫りくる大規模感染の恐怖」
米国のピューリッツア賞作家ローリー・ギャレット(Laurie Garrtt)は、カミ
ング・プレイグ(Coming Plague)(本講座106回)に続いて「信頼の裏切り」
(Betrayal of Trust)というすばらしい著書を出版しました。その概要は本
講座111回でご紹介しましたが、今回、その日本語版がカミング・プレイグ
の場合と同じく、野中浩一さんの翻訳、私の監修により、河出書房新社か
ら出版されました。2段組で上下巻合わせて730ページあまりという大作
です。
その内容の一部を、目次および巻末に私が書いた解説でもってご紹介
します。
「目次」
日本語版への序:SARSの春、アジアからの緊急報告
序章:本当の進歩とは何か?
第1章:不潔と荒廃(肺ペストがインドを襲い、世界は誤った対応をする)
第2章:ランダランダ(ザイールにおけるエボラウイルスの流行は、政治的
腐敗が公衆衛生を危機に陥れていることを明らかにした)
第3章:ブルジョワの生理学(旧ソヴィエト社会主義共和国時代に作られた
偽りの公衆衛生がすべて崩壊する)
第4章:反政府志向と階層格差(政府離れの時代におけるアメリカの公衆
衛生基盤)
第5章:生物戦争(恐怖の生物学的テロリズムと公衆衛生)
第6章:エピローグ(変貌する公衆衛生の様相と地球規模の予防の将来)
訳者あとがき
解説
「解説」
21世紀初めに突如出現した重症急性呼吸器症候群(SARS )は、未知
のウイルス感染症による脅威が現実のものであることを全世界に示して
いる。SARSは世界保健機関を中心とした活動により終息の方向に向か
っているが、これからも再発の可能性がある。また、別の新たなウイルス
が野生動物からジャンプしてヒトへの感染を起こす可能性もありうる。免
疫が存在しない社会に広がる、このようなエマージング(新興)感染症に
対して、我々が頼れるのは社会の健康を守るための公衆衛生対策であ
る。
本書の著者ローリー・ギャレットは感染症の脅威とそれに対する公衆衛
生基盤の現状を指摘した大作「カミング・プレイグ」を1995年に出版した。
ちょうど、1980年の天然痘根絶宣言を契機に生まれてきた感染症時代
の終わりという幻想から、エマージング感染症の現実に人々が目覚めは
じめた時期であった。
「カミング・プレイグ」は全米に大きな反響を呼び、クリントン大統領から
の賛辞まで寄せられた。環境破壊の問題を指摘したレイチェル・カーソン
の「沈黙の春」に匹敵する20世紀の最高傑作のひとつとも評価された。
しかし、出版後に著者が悩んだのは、自らが指摘した問題に対する解
決策である。ジャーナリストの任務は書くことであって、社会のジレンマの
解決は自分の役割ではないとしながらも、地球人のひとりとして、この絶
望的な現状を深刻に受け止めた著者は、公衆衛生こそが解決策である
として、その実態を地球規模で調査を行い、その集大成として本書を書
き上げたのである。
著者のローリー・ギャレットはカリフォルニア大学で生物学を学び、スタ
ンフォード大学の博士課程では免疫学を専攻した後、米国の新聞ニュー
ズデイの科学ジャーナリストとして活躍している。1995年にザイールで
発生したエボラ出血熱に際して現地取材で行った報道活動に対しては、
ピューリッツア賞が与えられている。ジャーナリスト分野ではピューリッツ
ア(Pulitzer)賞のほかにピーボディ(Peabody)賞、ポーク(Polk)賞があり、
3P賞と呼ばれているが、彼女はそのすべてを受賞している。1990年代
半ばには、全米サイエンス・ライター協会の会長も務めていた。
本書は発展途上国のみならず米国のような先進国も含めて公衆衛生
基盤に破綻が生じていることを克明に紹介したものである。その主な点
をかいつまんで紹介してみる。
公衆衛生基盤がほとんど存在しない社会での感染症の実例としては、
1994年にインドで発生したペストおよび前述の1995年にザイールで
発生したエボラ出血熱の実態がある。一方、ロシアでは、旧ソ連の時代
から公衆衛生の破綻が始まり、その結果もたらされた環境汚染を初め
ジフテリア、チフス、結核、エイズなど感染症の蔓延が起きている。米国
では薬剤耐性菌による院内感染を初めとしてさまざまな公衆衛生にかか
わる問題が浮上してきており、一方で経済発展により国民の多くは生活
の場を郊外へと移動し、白人の中流階級に見捨てられた都市では急速
な荒廃とともに、公衆衛生基盤が維持できなくなってきている。
そして他方では、微生物学の影の部分ともいえるバイオテロリズムが
注目されるようになった経緯が紹介されている。バイオテロリズムの危
険性が公開の場で初めて議論されたのは、1996年にCDCが主催した
第1回国際エマージング感染症会議であった。これには筆者も参加した。
なお、ここでローリー・ギャレットに会った際に彼女から日本におけるO157
発生の経緯について鋭い質問をされたことが印象に残っている。
本書全体を通して示されているのは、世界の各地で公衆衛生が破綻
を来している実態であって、まさに、地球規模での公衆衛生白書といえ
よう。
著者は最後に、生物兵器による攻撃、自然発生する感染症のいずれ
にせよ、国民の信頼の対象となるものはただひとつ、地域、国家、そし
て地球規模での公衆衛生基盤であると述べている。本書の原題名「信
頼の裏切り(Betrayal of Trust)」は、公衆の信頼に応えるべき公衆衛
生のシステムが、それにふさわしい現状になく、我々を裏切っているこ
とを示したものである。
本書の翻訳がほぼ完了した頃、SARS が発生し、全世界に大きな衝
撃を与えた。あらためて、本書を読み直してみると、まさにSARSで起き
てきた社会混乱を目の当たりに見る感じを受ける。そして、SARSのよ
うな未知の感染症について的確な予言をしていたことがうかがえる。
日本語版の序文をローリー・ギャレットに依頼したところ、ちょうど彼
女は中国でのSARSの取材の最中であった。中国からニューヨークに
戻った後、6月末に長文の日本語版への序文が送られてきた。それは、
現地での取材を通じてSARSと公衆衛生の問題についての生々しい現
実を彼女の鋭い視点からくわしく紹介したものであった。単なる序文で
はなく、SARSに関するひとつの章としても読み応えのある内容になって
いる。
「カミング・プレイグ」の日本語版の出版は、20世紀中に実現するこ
とができ、21世紀初めにはその続編ともいえる本書の出版にこぎ着け
ることができたことは、監訳者として大きな喜びである。SARSの発生で
エマージング感染症への関心が広がっている現在、本書を通じて多く
の人々が公衆衛生の重要性についての認識を高められることを期待
したい。
Topへ戻る
Zoonoses講義一覧へ戻る
Click
here to Home Page